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シオノギの歴史

シオノギ歴史館

1878年に塩野義製薬(シオノギ)の前身となる薬種問屋「塩野義三郎商店」が大阪道修町に誕生し130年以上の時が流れました。時代とともに世界も、そしてシオノギも大きく変化してきましたが、その一方で、シオノギは創業時の精神を忘れることなく、いまも創業の地に本社を構えています。
明治・大正・昭和・平成の4時代にわたる環境の変化に対応し、発展してきたシオノギの歴史をご紹介します。

1878年(明治11年)創業

初代 塩野 義三郎

薬種商を営む父 吉兵衛のもとで商売を学んだ塩野義三郎は、1878年3月17日、24歳の誕生日を機に独立し、大阪の道修町3丁目12番地に薬種問屋「塩野義三郎商店」を創業しました。
「塩野義製薬」の歴史の幕開けです。

1886年(明治19年)和漢薬から洋薬へ

創業当時は主に和漢薬を扱いましたが、開業8年後の1886年、西洋医学が広く普及し始めたのを機に、洋薬の輸入販売を開始しました。当時、西洋の医薬品は横浜や神戸にある外国商館経由で流通していましたが、貿易実務に通じていない薬種問屋が外国貿易商の言い値で商品を買い取っていたために高値がついていました。そこで義三郎は、いち早く英語に堪能な実務経験者を招き入れて海外から直接医薬品を輸入し、庶民でも手の届く価格での販売を実現しました。しばらくして他社も直輸入を始めると、義三郎は、自ら医薬品の製造を行う製薬事業を志すようになりました。

1909年(明治42年)洋薬から新薬へ
新薬第1号「アンタチヂン」

アンタチヂン

義三郎の次男 長次郎の東京帝国大学医薬部薬学科卒業を機に、シオノギは本格的な製薬研究に取り組み始めます。そのような折、塩野義三郎商店の管理薬剤師が府立大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)の小児科医長から、ドイツの医薬書に制酸剤の処方が書かれていることを聞きつけます。そして長次郎がその制酸剤の試験製造を開始し、製品化に成功します。この健胃制酸剤「アンタチヂン」が、塩野義三郎商店で初めて自社開発した、記念すべき新薬第1号となりました。

1909年(明治42年)分銅マーク商標登録
”正確の追求“に基づく分銅マーク

分銅マーク

信用と信頼は経営の必須条件といわれます。塩野義三郎商店も創業以来、信用と信頼が最大の“資本”でした。
シオノギの社章は、薬を天秤で量る際に使用する「分銅」に由来しています。分銅は、「正確」「正直」「信頼」の象徴であり、常に正確を追求するシオノギの願いを表しています。

1910年(明治43年)塩野製薬所を建設
新薬と製造

ヂギタミンの発売広告

「アンタチヂン」の製品化に成功すると、義三郎は新薬製造を事業として本格的に発展させるべく、大阪府西成郡(現在の大阪市福島区)に製薬工場「塩野製薬所」を新たに建設します。シオノギが名実ともに製薬部門を持ち、製薬企業として新たなスタートを切った瞬間でもありました。
塩野製薬所は長次郎が所長となり、1910年に本格稼働を始めましたが、当時の製薬事業は原料薬品でさえ外国産に頼っている状態で輸入薬品に圧倒され、経営的にも苦戦を強いられていました。そこで長次郎は、塩野製薬所を将来の発展の基礎づくりと考え、厳しい経営状況を打破するために、当時ドイツ留学から帰国したばかりの近藤平三郎薬学博士を顧問として招きます。近藤博士の紹介で製品化したヂギタリス製剤は、1912年に心臓新薬「ヂギタミン」として発売されました。2年後に勃発した第一次世界大戦により外国医薬品の輸入が途絶える中、シオノギは自社製品「ヂギタミン」を自社で製造・販売し、また国産医薬品も積極的に取り扱うことで、多くの人々を救いました。

1943年(昭和18年)塩野義製薬株式会社へ社名変更

終戦翌年の1919年、シオノギのさらなる発展を目指して、義三郎の長男 正太郎が管掌してきた薬種問屋・塩野義三郎商店と、次男 長次郎が主宰してきた製薬事業・塩野製薬所を合併し、「株式会社塩野義商店」が設立されました。
1943年には、事業内容を製薬中心にすることを明確に示すため、現在の「塩野義製薬株式会社」へ社名変更しました。

1945年(昭和20年)荒廃の中からの再出発
国際水準を目指し合理化へ

第二次世界大戦の敗戦により一挙に海外事業所を喪失し、主力工場や設備も空襲でほとんどが壊滅したことで、シオノギは出荷できる薬のない状態に陥っていましたが、二代目義三郎社長は従業員を集め、「今はいたずらに泣き悲しむ時ではない。これからは世界が相手になる。われわれは何事も国際水準を目あてに精進努力しなければ、生き残ることはできない」とシオノギの進路を示しました。
しかし、終戦後の悪性インフレの急速な進行、物価高騰の激化により世の中は混乱し、企業預金の凍結、戦時補償の打ち切りなどにより、シオノギも破産同然となり創業以来最悪の経営状態に陥りました。
義三郎社長は、「赤字を消す方法、それは各々がその持ち場、持ち場において、あらゆる技術の引き上げと、あらゆる原価の切り下げに、各自の能力と努力を傾けつくすことよりほかに、道はない。危機は迫っている。明確な目標を立て、全員一丸となって突進しようではないか」と述べ、1948年には「危機を乗り切るための三大目標(1.あらゆる技術の引き上げ 2.目標とその確認の徹底 3.美化)」を示し、経営改善に向けた取り組みをスタートさせました。一時的な生産増強運動ではなく、将来に向かって計画的に生産力を上げることを見据えた、合理化への道を歩み始めたのです。

1950年(昭和25年)鎮痛薬「セデス錠」発売

「セデス」の歴史は、1939年に医療用医薬品として始まります。鎮痛を意味する英語(sedative)を元に、読みやすく、印象に残る名称ということで回文スペルの製品名「SEDES」が誕生しました。その後、1950年にOTC製品(一般用医薬品)として発売されてからは、より安全で効果のすぐれた鎮痛剤となるよう改良を重ね、1976年には「セデスA」を、さらに1987年には今も多くのファンの方々に支持されている「新セデス」を発売しました。
半世紀以上にわたり痛みと向き合ってきた「セデス」は、お客さまのニーズに応え製品ラインナップを充実させながら、「♪痛くなったらすぐセデス」のキャッチフレーズとともに皆さまのQOL(Quality of Life:生活の質)の向上に貢献していきます。

1953年(昭和28年)総合ビタミン剤「ポポンS」発売

総合ビタミン剤「ポポンS錠」

保健知識が広く普及し、それまで治療用の薬剤として用いられていたビタミン剤が、疲労回復、体力増進などを目的とする保健剤として多く使われるようになりました。当時のシオノギにとって、ビタミン剤は売上および利益の両面における最重点品目で、1953年には総合ビタミン剤「ポポンS」を発売しました。以後、改良を重ねて今日に至っています。
「ポポンS」の名前の由来は、ぽぽん(活力や意欲が非常に盛んなことを意味する旺盛擬声語)+SHIONOGIのSです。

1957年(昭和32年)基本方針の制定
「シオノギは、常に人々の健康を守るために必要な最もよい薬を提供する」

シオノギは創業以来、企業文化として、また日々の活動指針として、よりよい製品を造り、正確に売る。そして、絶えず技術を発展させることによって、それを消費する人々の利益をさらに大きくするとともに、シオノギで働く人々の生活自体も豊かにしていく、というシオノギ独自の哲学、思想を、その時々の時代の変化に対応しながら継承してきました。
そして、そういった歴史が発展させてきたシオノギの経営思想の集大成として、1957年に「シオノギの基本方針」を制定しました。永遠の努力目標となる「基本方針」を持つことにより、“人々の健康に奉仕する”という、製薬メーカーとしての基本的な方向を見失うことなく、進むことができています。

1958年(昭和33年)ディテールマン宣言
プロパーからディテールマンへ

基本方針制定の翌年、塩野孝太郎社長より、後に「ディテールマン宣言」と呼ばれる訓示が述べられました。
「消費者の健康状態の確認を行い、それに対応する消費者余剰の多いシオノギ製品をすすめるのがディテール活動である。価格だけで安売り競争をしてはならない」
「従来のプロパガンダは、ペコペコして相手にとり入る立場であったが、ディテールは、相手が聞いてよかったと思い、もっと聞こうとさせるものである。そこで、今日からプロパーの名称を廃し、ディテールマンと改称する」
ディテールマン宣言以降、営業部門の人々は、効能だけでなく副作用についても正確に説明し、自社の薬が実際に患者さまの治療に役立ったのかをしっかりとフォローする、いわゆるディテール&トレースを徹底して実行してきました。これまでに培った先義後利の信念に基づく私たちの活動が、ディテールマン宣言でより明確に示されました。

1959年(昭和34年)~抗生物質のシオノギ
初めて独力で開発した「シノミン」の発売

サルファ剤「シノミン」

1959年に、シオノギの研究所で初めて合成されたサルファ剤「シノミン」を発売しました。「シノミン」はその優れた薬効が高く評価され、2年後には世界各国で販売されるようになりました。そこで抗生物質関係のグローバルな発展を見据え、抗生物質の製造工場を建設しました。
また、シオノギは、早くから海外の製薬企業から医薬品を輸入していましたが、中でも米国イーライリリー社との関係は深く、1952年にはイーライリリー社が発見した新抗生物質「アイロタイシン」の日本における独占的な製造・販売実施権を得ました。続いて、1966年にセファロスポリン系抗生物質「ケフリン」、1967年に「ケフロジン」、1979年に「ケフレックス」を導入し、これらの製品はシオノギの売上に大きく貢献しました。

1982年(昭和57年)~抗生物質のシオノギ
自社創製品の発売

オキサセフェム系抗生物質「シオマリン」

イーライリリー社との提携を通して、売上だけでなく、シオノギの研究力や製造力も大きく飛躍しました。1961年に完成した基礎研究を担う中央研究所(現在は医薬研究センターに集約)で抗生物質に関する研究を進め、1982年には世界初のオキサセフェム系抗生物質「シオマリン」を自社創製品として発売しました。その後1988年に「フルマリン」、1997年に「フロモックス」を発売したシオノギは“抗生物質のシオノギ”と呼ばれるようになり、研究におけるその学問レベルは世の中からも高い評価を受けました。

1983年(昭和58年)金ケ崎工場建設

金ケ崎工場

将来の医薬品製造設備の拡大に備えるという長期的な計画に基づき、大規模な工場用地を確保した岩手県胆沢郡金ケ崎町に、シオノギの基幹工場の1つとなる金ケ崎工場が建設されました。
自社開発の感染症治療薬や疼痛治療薬などを製造し、米国食品医薬品局(FDA)など海外の当局による査察にもパスした製造技術および品質管理体制を有する金ケ崎工場は、大阪府の摂津工場、兵庫県の杭瀬事業所などとともに、安全、品質、供給、コスト、環境の5つに目を向け、高品質な製品を造り続けています。

1998年(平成10年)シオノギ行動憲章の制定

今後グローバル企業として世界に飛躍・発展するための行動規範として、シオノギの基本方針と対をなす「シオノギ行動憲章」が制定されました。基本方針が事業の目的を表したものであるのに対し、行動憲章は社会の一員として、また製薬企業としてシオノギがとるべき行動を規定しています。その背景には、一流企業の破たんや不祥事など大きな社会的変化もありました。
塩野芳彦社長はシオノギ行動憲章を制定するとともに、シオノギが21世紀に生き残り発展していくための様々な環境変化への適応をテーマに、組織や人事制度の改革等に対する取り組みも始めました。

2000年(平成12年)4月~2005年3月第1次中期経営計画
-基盤整備-

2000年、国内医薬品市場の停滞および海外メーカーとの競争激化の中、シオノギは医療用医薬品事業への集約化に向けた基盤整備のため、塩野元三社長のリーダーシップのもと「第1次中期経営計画」を策定し、大胆な構造改革に踏み切ります。
まずは、医薬品事業に一本化するため、植物薬品、動物薬品、医薬品卸などを他社に営業譲渡、移管しました。また、研究領域の絞り込みと開発のスピードアップを目指し、2001年には米国に開発子会社を設立、さらに英国グラクソ・スミスクライン社との提携により新薬の共同開発も始めました。
これらの取り組みの結果、経営体質が改善し、パイプライン(開発候補品)が順調に進捗するようになり、肥満症治療薬やHIV感染症治療薬が今後の成長ドライバーとして存在感を示すようになります。また、英国アストラゼネカ社にライセンスアウトした高コレステロール血症治療薬「クレストール」が、2003年から米国をはじめ世界100ヵ国以上で発売され、シオノギに大きなロイヤリティー収入をもたらすようになりました。

2005年(平成17年)4月~2010年3月第2次中期経営計画
-飛躍への胎動-

高コレステロール血症治療薬「クレストール」、特発性肺線維症治療薬「ピレスパ」

2005年にスタートした「第2次中期経営計画」では、「クレストール」のロイヤリティー収入で得られた収益を、感染症、代謝性疾患および疼痛の重点3領域に研究開発費として集中投下しました。
同時に、自社創製品の海外販売拠点を整備するため、2008年4月に塩野元三社長から経営を引き継いだ手代木功社長は、米国製薬会社Sciele Pharma, Inc.を買収し、シオノギは世界最大の医薬品市場である米国に自社販売網を構築しました。
また、国内市場においても、「クレストール」などの戦略品目を次々と発売して新製品にフォーカスし、抗生物質などの急性期疾患治療薬から、慢性期疾患治療薬へのシフトを進めていきました。

2010年(平成22年)4月~2014年3月第3次中期経営計画
-SONG for the Real Growth-

医薬研究センター(SPRC)

2016年以降の「クレストール」の特許満了に伴うロイヤリティー収入の減少、すなわち「クレストールクリフ」を乗り越え、さらなる成長を図るための戦略を「第3次中期経営計画」として発表しました。
2011年には、大阪府豊中市の研究所敷地内に研究所新棟SPRC4(Shionogi Pharmaceutical Research Center 4)を建設し、分散していた創薬研究機能を新棟ならびに既存3棟から構成される医薬研究センターに集約しました。
一方、米国展開を考えていた肥満症治療薬が開発中止となったため、Sciele Pharma, Inc.のビジネスモデル転換および事業構造改革を前倒しで行い、2011年にShionogi Inc.として再出発するとともに、マネジメント体制を刷新し、2013年にはシオノギグループ初のグローバル新薬「オスフィーナ」を米国で発売しました。
また、2011年には中国製薬企業C&O Pharmaceutical Technology (Holdings) Limitedを買収、さらに2012年には英国に開発子会社Shionogi Limitedを設立し、基本方針のグローバル化に向けて踏み出しました。

2014年(平成26年)4月~新中期経営計画
-創薬型製薬企業として成長する-

SGS2020における成長戦略

2014年4月、第3次中期経営計画の期間を1年前倒して、新中期経営計画「Shionogi Growth Strategy 2020 (SGS2020)」をスタートしました。これは、急速な外部環境の変化や、その環境変化に適応するために行ってきた取り組み(2012年10月に発表したヴィーブヘルスケア社とのHIV感染症治療薬に関する契約枠組み変更、2013年12月に発表した「クレストール」ロイヤリティーに関する契約変更等)により、第3次中期経営計画における経営目標の見直しが必要になったからです。
新中期経営計画では、“創薬型製薬企業として成長する”ことをビジョンに掲げ、ROE(株主資本利益率)を経営指標の1つとして定め、直近3年間でやり遂げるべき項目を明確にし、ローリング方式で毎年成果と課題を確認しながら、2020年の経営目標に向けて取り組むことを明確に示しました。これにより、環境変化に対応した柔軟なビジネスを行うとともに、製薬企業の要である創薬に注力し、さらなる成長を目指して歩みを進めています。

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